エジプト一人旅4 ~アスワン~
アスワン
ルクソールから南へ列車で3時間、アスワンは、アブ・シンベルへの観光拠点。市内にはアガサ・クリスティの『ナイルに死す』の舞台になったホテルがある。
夜9時頃アスワンへ到着、駅からすぐの店でコシャリを食べて、疲労を感じつつ適当な宿へ。
レセプションで明日アブシンベルへ行きたい旨を伝え、翌日の早朝3時に集まる様に言われる。ベッドに横になり、日本から持参した耳掻きをしていたら、直ぐに眠ってしまった。翌朝、アブシンベルとその他の見どころへ向け出発。
世界遺産の始まり
アスワンから約250km、アブシンベル神殿は、世界遺産創設のきっかけになった場所だという。
もともと1960年頃までは現在の場所から60m下方の岩山が彫られて出来た遺跡が、アスワンハイダムの建設で水没の危機に瀕した。それを救ったのがユネスコで、遺跡の救助活動、移築が行われたとの事。巨大な遺跡をブロックに切り分けて、移動。。凄い。そこから歴史的価値のある遺跡、建築、自然等を国際的に組織で守っていく流れが生まれたそうな。
ちなみに最初の世界遺産登録の第1号は、1978年、エクアドルのガラパゴス諸島などの12か所、アブシンベルは、次の年、2回目の登録である。
アブシンベル神殿
目の前に現れたアブシンベル大神殿は、青空の下、どーんとそびえていた。4体(1体は地震で崩壊)集まったラムセス2世の巨像は、今まで他の遺跡で1体ずつ見てきた、例えばルクソールのメムノンの巨像などが集まった様で大迫力だった。これが古代エジプト神殿建築の最高傑作といわれるのも頷ける。目の前の迫力と、ここまで来れた喜びでちょっぴり感慨に耽る。
内部へ入ると、まっすぐな道があり、左右に4体ずつラムセス2世の像、壁画がいたる所に描かれ、再奥部にはこちらに向かい4人の神像が鎮座する。年に2回(移設前はラムセス2世の生まれた日と、王に即位した日)再奥の神像、冥界神プタハを除いた残りの3体を、太陽が明るく照らすように設計されている。
ヌビア遺跡など観光
黄金という意味を持つヌビア、アブシンベルを含めエジプト南部からスーダンにかけての遺跡郡をヌビア遺跡という。その中の一つ、イシス神殿はナイル川に浮かぶフィラエ島にある遺跡で、こちらは、ダム建設の際、島ごと移動。お花型の柱が面白い、割合コンパクトでお洒落な印象だった。
アスワンの観光は、アブシンベルを観て満足し、他を回らない人が少なくないらしい。私も同じで、アスワンハイダムでは車から一瞬降りて、すぐに車内で眠っていたのだった。
アスワンでのひと時
アスワンは非常に雨が少なく、世界で最も乾燥した居住地の1つ。日中、腕時計の温度表示を見ると40度を優に超えていた。カイロと比べて黒い人が多く、アフリカに近づいているんだと実感できる。内戦の続くスーダンはすぐ南にある。
街をふらふらした際には、伝統的なヌビアの民族音楽のCDを買ったり、喫茶店でシーシャを吸ったりした。皆親切で、カイロまでの帰りの切符を買う窓口以外、嫌な人には出会わなかった。
ただ、レストランで、エジプトではお馴染みのコシャリに、トッピングに川魚を付けたのは、失敗だった。最初で最期のトッピング。
カイロへ戻る
夜行列車で10時間、再びカイロへ戻る。最初に来た時は警戒心でいっぱいで、逃げるように歩いていたのが、この頃には、少しはマシになった気がする。(以前、アーユーアフレッド?と尋ねてきたエジプト人にこの姿を見ていただきたい。)買い物をしたり、ベリーダンスを見に行ったり、残りの時間を惜しみながら、近場を観光して過ごした。
また、イスラム地区に行った際のモハメッド・アリ・モスクからの展望は素晴らしかった。何処でもあった事ではあるが、特にこのモスクでは、子供達から写真をせがまれ、無邪気にポーズをとった姿を何枚も撮影して癒された。最終的にはもう嫌と逃げ帰ったのだけれど。
今、子供達の顔を思い返すと、この国の辺りで、内戦や戦争、テロが起こっている現実を受け止めたくない気持ちが強くなる。そして旅で出会った人達、みんな元気かな。
帰国
私の帰国の前日、飛行機の時間に遅刻し、宿へ帰って来た人がいた、「大変ですね」と言ったら、飄々と「はい、仕方ないのでエティハド航空のチケットをとりなおしました」と言う。明日の帰国への緊張が高まった。
空港での搭乗手続きは、エジプトに向け出発した時と何ら変わらず不安でいっぱいだった事は言うまでもない。
2010.3